2010年3月16日火曜日

言霊の無自覚

Ernest Gellner 曰く、『初発の出来事は自分は何をしているのか分からない人々によって行われたのであって、この無自覚性こそが出来事の紛れもない本質であった』そうだが、『非実在青年』に端を発する東京都の問題はまさしくこれと適合する。

今回の問題は、いわゆる『オタク』思想に自身のアイデンティティと共通価値を見出す人間が中心に危機意識を持っているらしい。こうした『ネット』に群がる、多くの『住人』たちは自分の発言に『無警戒』ではないにしても、多かれ少なかれ『無自覚』である。そして、『忘れっぽい』。

東京都の青少年育成条例案を起案した青少年問題協議会は、言わずもがな現都知事の御用機関である。そして、改正案の事実上の発起人である現都知事の、これまでの差別的な言動や排他的な政策を諸手を挙げて賛美し、最も強力な支持を宣言していたのは、PTAでもなければ総連でもなく、2chをはじめとしたネットにはびこる人間たちだろう。

彼らはこれまで、自身の内部に存在し、抑圧されてきた社会的な『不平等感』を、『排他性』に消化してインターネット上の掲示板に露出してきた。無論こうした表現行為は規制されるべきものではない。しかし、彼らはその影響力や政治に対する親和性について、あまりに無自覚である。

在日外国人に対する排斥、障害者やその他社会的弱者に対する差別を推進するような排他的な『スレッド』は、もともと排他的な思想に染まっていた一部政治家や評論家にたいし、都合のよい肯定材料に使用されてきた。こうした人々の持つ排他的な見識というのは、ひとりの意見としては決して完結せず、集団の共有意識としてしかその表現の芽を露呈しない。なぜならば弱者に対する排他意識というのは個々人のプライベートな疎外感や敗北感から発生した、利己的な虚栄心から生まれるからだ。単体では子供の駄々でしかない。

彼らの表現のベースとっていた排他性が一部の排他的な政治家の燃料の一部となり、結果的には自身の快楽やアイデンティティを破壊される結果になった。彼らは、外国人や障害者に対して突きつけられていた際にはほくそ笑んでいた剣が、今回は自らの眉間に突きつけられることになったのである。

これほどわかりやすい『茶色の朝』の実例も珍しいだろう。彼らが今回の一件から学ぶべきことは多いだろうが、彼らは何も学ばないだろう。彼らの知識、思考や反省は、twitterのつぶやきやスレッドのようにTLのなかで可及的速やかに流されていくのだから。人は自分に都合の悪い事実は忘れやすい。そーいえば今回の育成条例改正をもっとも根気よく報道した大手紙は、彼らの大嫌いな朝日新聞だっけ。

現在、我が国の論壇は、多くの情報を『共有』して自身の言葉の重みを知らない『無自覚』な人間と、多くの情報に『恐怖』して表層的な情報に足をひたすだけの、知識の重みを知らない『イタい』人々が占拠する。はぁ。

0 件のコメント: